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人生の時間の使い方

初めての海外は高校1年生、地元の洋上教室で行ったサイパンだった。
高校卒業時には友人たちとアメリカ西海岸へ。どうしてもニューヨークにも行きたくて、ひとり大陸を横断した。
19歳、フランス語の短期留学でスイスを訪れ、異文化との初めての交流を実感。
大学4年、日本の大学があまりにも物足りなくアメリカの大学へ留学した。
そして就職したメリルリンチ証券を退社し、世界100か国以上への旅へ。

人生には、なぜ旅が必要か。それは旅が非日常の連続だから。
自分の守備範囲から外に出ることで、新しい刺激と出会いが待っている。
未知なるものは最高の刺激を与えてくれ、クリエイティブの源泉となる。
また、自分を見つめなおす時間もたっぷりと与えてくれる。
もうひとつ、重要な部分について語っておこう。
日本にいる時間が長ければ長いほど、社会の同調圧力がボディーブローのように効いてくる。
自分の思う正しい道を進みたくても、魂の正気を保ちたくても、
人はその同調圧力に勝てるほど、強い存在ではないのだ。
自分自身をリセットしもう一度初心に帰る、そのためも旅が必要なのである。
一時的な、でも劇的な環境の変化を、旅は与えてくれるのだ。

世界への旅に出る直前、ハワイで友人とキャンプをしていた時の
こんな出来事を思い出す。
昼前のキャンプ場には観光客の姿はほとんどなく、子犬を連れた地元の男性が話かけてきた。
「今朝から仕事があったのだが、今日は妻と過ごしたいから仕事に行くのをやめた」という。
当時の私には、衝撃的な一言だった。
そんな理由でいちいち仕事に行くのをやめていたら、日本の会社で生き残ることは困難だろう。
実際、一緒にいたドイツ人の友人は皮肉交じりにこう言った。
「お前はこれから世界を旅して、先進国以外の国では
こういうアホな人たちばかりと出会うことになるんだろうね」。
彼は何を言ってるんだろう。
「俺は、こういう人たちと出会いたいんだよ。そのために旅に出るんだよ」
私はそういって、これからはじまる旅への期待にますます胸を膨らませたのだ。

事実、旅をする前の私は何かを判断するときに、それが日本の常識ではどうなのか、
日本の社会ではいいのか悪いのか、ということがつねに頭の中にあった。
しかし長年の旅の後では、善悪の判断基準が自分だけの軸から生み出されるようになった。
いまの私にとって、日本の常識は「あくまで参考」程度のものである。

大学を卒業しメリルリンチ証券も退社した後の私は、こうして世界100か国以上をめぐる長い長い旅に出た。
自分が過ごしてきた環境からなるべく遠い環境に身を置いて、
それまで接してきたことのない人たちと喜怒哀楽を共にしてみよう。
特にインド、アフリカ、中南米をターゲットに、
それぞれ半年から1年、合計でも2,3年で世界を旅しよう、という計画だった。
しかし実際に旅に出てみると、行きたい場所がつぎつぎに増える。
新しい発見をすればするほど、さらに好奇心をそそられるものに出会っていく。
中でも旅のハイライトとなったのが、インドの瞑想寺(アシュラム)だった。

瞑想との出会いは、私の人生にとって非常に大きな意味があった。
通常は、瞑想というと眼をつぶって静かに座ることを想像するが、
インドの瞑想寺ではちょっと違っていた。
そこでの瞑想とは、「自分自身を見つめること」であり、食事をしていようが、掃除をしていようが、
行動している自分自身を冷静に見つめることができれば、それが瞑想になる、ということだ。
普段は意識しない自分の呼吸をみつめ、脈の鼓動を聞くことでもある。
そうやって自分というものを、あたかも第三者が見つめるように、ただひたすら傍観し、観察する。

しかしそこで問題となるのが、見つめている「自分」とは何か、である。
簡単にいうと、自分とはふたつに分けることができる。
生まれついてのDNAから影響される「こうありたい」と望む自分と、
育った環境から影響される「こうあるべき」という自分。
このふたつにギャップがあればあるほど、自分とはいったい何なのかが不明になってくる。
そこで瞑想寺では、社会が個人に求める「こうあるべき」というものを最大限に排除し、
「こうありたい」という自分にフォーカスするように仕向けてくれる。
例えば「男だから人前で泣くな」という社会的なタブーは排除され、
いつでも泣きたいときに泣いていい。
そうすることで、自分が「本来欲している自分自身」と対峙せざるを得なくなってくるのだ。

インドの瞑想寺で、はじめて瞑想と出会ったころ。カートグラフィーという、
インドの占星術を使って世界の地図上に線を描いていくワークショップがあった。
生まれた場所と正確な時間から、その時にあった星の位置を特定するのがインド占星術だが、
それに加えて星の軌道を、世界地図上に描いていく。
その軌道が重なり合う場所が多ければ本人にとっては心地がいい場所、ということになる。

まだ世界の旅をはじめたばかりの私は、
この先に訪れるどの場所が運命の地なのか、ワクワクしながらセッションをうけた。
しかし私のために描かれた地図には、重なり合う線があまりなかった。
「うーん、インドネシアあたりにちょこっと関連性があるけど、特にどこにも強い場所がないですね」
「日本も?」「そうですね、日本もあまり強くない」
「でも、僕はこれから世界を旅しようとしているんだけど・・・」
「世界を旅することはとても有意義だし、あなたにとっても重要なことでしょう。
でも、もっともっと重要なことがあります。それは、自分の内面性を旅することです。インナー・ジャーニーです」
「内面性の旅??」 「そう、それが瞑想です」
この瞬間、私はインドの瞑想寺にしばらく身を置くことを決心し、
私の人生に精神世界の扉が開き始めたのだ。

のちにタンゴと出会うことで、それもまた瞑想の一部であることを悟り、
タンゴを踊ることで今日にいたるまで、私の瞑想は続いている。

まずは何を置いても、ひとりで行くこと。
ガイドブックはあくまで参考で、自分の感性に従って何をするか、どこに行くかを決めること。
なるべくいままで見たことのないもの、やったことのないことを優先すること。
なるべく、友人に見せることや、語ることを考えないこと。
自分の感性に響くことを自分の目線で発見し、
自分の目線で判断し、自分の中だけでまず消化すること。

出会いこそが旅の醍醐味でもある。新しい人と出会うことに躊躇しない。
積極的に自分から話しかける。相手から話しかけられる場合は詐欺の可能性もあるが、
だからといって未知の可能性に心を閉じてしまっては、旅をする意味がなくなってしまう。
未知の世界へ飛び込む恐怖は、将来にそこから得る喜びに比べると何でもない。
もちろん恐怖は誰でもあるし、いつまでたっても無くならないが、
繰り返すことでそのストレスは軽減する。
それよりもどんどんと成長していく自分自身を実感することができれば、
ストレスよりも楽しさが先行してくる。

つねにリスクを考えながらも、自分でマネージできるギリギリのところまで行ってみる。
そこまで行かなければ新しい世界と出会うことは、難しい。